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建畠 覚造先生ご逝去。
2006年2月16日心不全のため、永眠につかれました。(享年86歳)
●純粋な抽象彫刻の先駆者「超感覚的理念の世界」
彫刻家 建畠 覚造
文化功労者・行動美術協会彫刻部創立会員
我々は、日本の彫刻が、一度は抽象という造型の厳しい壁を突破する必要があると考え不満足なデータの中で、抽象造型を手さぐり、その厳しさを掘り出して、その上に純粋な人間の声を築き上げたいという意欲に燃えていたわけである。
(参考資料:(建畠覚造「モニュメント」1963年)
● 年譜
- 1919 彫刻家建畠大夢(帝国芸術院会員・東京美術学校教授)の長男として東京に生まれる。
- 1941 東京美術学校彫刻科塑造部卒業、第4回文部省美術展(新文展)に《黙》を出品、特選を受賞。43年第6回文部省美術展に《渺》を出品、第3回野間美術奨励賞を受賞。
- 1947 東京美術学校の同窓板谷慎らと「晨生会」を結成、日本彫刻家連盟が発足し委員となる、第3回日本美術展に《晢》を出品。49年日本美術家連盟に参加、第13回新制作派協会展に《裸婦》を出品。50年行動美術協会彫刻部の新設に参画、会員となる。
- 1954 第1回国際造形芸術家会議に日本代表団として出席、柳原義達、向井良吉らが同行。57年現代美術十年の傑作展に《貌》を出品、集団58野外彫刻展に《鳥》《貌》《核》《核2》《有機体》《殻》《有機体2》とデッサン2点を出品。59年多摩美術大学彫刻科助教授となる、第14回行動美術展に《核と殻》を出品。
- 1965 多摩美術大学の外壁レリーフ《ORGAN NO.4》を制作、第20回行動美術展に《ORGAN NO.8》を出品。66年多摩美術大学彫刻科教授となる、第9回アントワープ国際彫刻ビエンナーレ展に《壁体》をベルギー出品、第10回高村光太郎賞を《壁体》で受賞、第2回日本芸術祭に《ORGAN NO.15》を出品海外巡回。
- 1973 第7回国際造形芸術家会議(ブルガリア・ソフィア及びヴァルナ)に日本代表として寺田竹雄と出席、第1回彫刻の森美術館大賞展に《閉じられた泡沫
又は PANDORA》《GO GO》を出品、第28回行動美術展に《さ傘(天の点滴を此の盃に)》を出品。76年第2回シドニー・ビエンナーレに《人》を出品。77年第32回富山県美術展の審査員を務める、第32回行動美術展に《DISK
4》《LIGHT BOX》を出品。
- 1980 アジア現代美術展に《UNDERGROUND 2》《UNDERGROUND 3》を出品、灘波田龍起・建畠覚造二人展開催。81年日本大学芸術学部美術学科彫刻コースの非常勤講師となる、第12回中原悌二郎賞を《CLOUD
4(大)》で受賞、82年建畠覚造展―最初の本格的な回顧展で、彫塑102点と、版画3点、デッサン40点を出品、昭和57年度和歌山県文化賞を受賞。83年第3回ヘンリー・ムア大賞展に《MANJI
2》を出品、ジャコモ・マンズー特別優秀賞を受賞、第39回福岡県美術展の審査員を務める。
- 1984 武蔵野美術大学共通彫塑研究室の非常勤講師となる、85年40周年記念行動美術展に《W.F.10(大)》木の造形を出品。86年第41回行動美術展に《W.F.33》を出品、武蔵野美術大学の客員教授となる。87年第39回宮日総合美術展の審査員を務める。
- 1990 第40回芸術選奨文部大臣賞を受賞、第18回日本国際美術展の選考委員を勤める、第2回現代日本木刻フェスティバルに《W.F.94》を出品。91年東京都新都庁舎議会棟ロビーに《WAVING FIGURE》を設置、日本近代彫刻の一世紀―写実表現から立体表現へ―に《地層》を出品、第46回行動美術展に《W.F142B》を出品、南方熊楠賞のトロフィーを制作。
- 2005 文化功労者となる。
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